Friday 2 October 2015

比べられて...

マーティーが怜の顔をじっと見ながら、「怜は頭がいいほうになるかな。つまりさ、姉弟の中で愛彩はかわいいほう、怜は頭がいいほう、みたいになるかな」とのたまいました。

生後2ヶ月に満たない、おっぱい飲んでうんちして寝て、たまーに笑うようになった赤ん坊を捕まえて、本当に「この子は頭がいいかもしれない」と思っているわけではありません。

すこし話しがそれますが、英語圏の人が映画に行ったとして「映画どうだった?」という問いに「ポップコーンが美味しかったよ」という答えが返ってきたとします。その場合、本当にポップコーンが特別おいしかったというわけではありません。映画があまりにもつまらなかったため、ポップコーンしかほめるところがなかったよ、と暗に映画をけなしているわけです。

つまり、マーティーは間接的に「愛彩のほうがかわいかったよね」と言っているわけです。私は「それ、ひどいよ。親として言っちゃいかんよ(笑)」とマーティーをたしなめつつも、「怜のかわいさは写真には写らないタイプのものかもしれない」と心の中で思ったりしたのでした(←ひどい)。

こういうとき、怜が男の子でほんとうによかったと思うのです。兄弟姉妹ってぜったいに比べられますが、性別みたいに決定的なことがそもそも違っていると、「だって男の子/女の子だし」という、本人に責任のない拠り所があるからです。もし怜が女の子で「お姉ちゃんのほうがかわいい」なんて言おうものならシャレになりませんが、怜は「男の子なので」ファニーフェイスでも大丈夫かなと思います(←本当か?)。

親にとって、子供はみーんなかわいいものですが、それでも全員を全く同じように扱うことはできません。必然的に二人目は一人目ほどかまってあげられないですし。現代社会は「なるべく階級をなくそう。差別をなくそう」という風潮だと思いますが、伝統的な日本のように性別と年齢で兄弟姉妹間にはっきりとヒエラルキーがあるのは、実は便利だなとも思うのです。「お兄ちゃんのほうがたくさんお年玉をもらうのは、長男だからだ」みたいに自分の責任のないところに拠り所があると、「お兄ちゃんのほうがたくさんお年玉をもらうのは、私の成績が悪いからだ」とか「見た目が美しくないからだ」「愛されていないからだ」なんて、平等に扱ってもらえない理由が、自分の不出来さや親からの愛情の差にあると思う必要がないからです。現代の「みんな平等に」という風潮に反対する気持ちは毛頭ないのですが、「最初っから不平等」に救われることってあるよなぁと思う私です。

さて、暗に「かわいくないほう」にされてしまった怜ですが(←重ね重ねひどい)、最近はマーティーからも「かわいくなってきた」と言われるようになりました。笑顔が増えてきたからかもしれません。ママは妊娠中から赤ちゃんと一緒にいるし、生まれてもすぐに授乳で赤ちゃんと仲良くなれるので、すぐに「かわいい〜!」と思えるんじゃないかと思いますが、パパは授乳という機会がないので、赤ちゃんがいろいろ反応するようになってから初めて「かわいい」と心底思えるようになるのかなぁと思います。


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